母の生と死に向き合う。

素敵にいってみよう

母のこと

第9話「あんたに時計をやる」

更新日:

母が入院した翌朝に電話をかけてきた。

「パジャマと下着を持ってきてちょうだい。
 とても困っています」

「あれ?お母さん、昨日のバッグに入ってなかった?」
と聞いても、なんだか、要領を得ない答えが返ってくる。
そうか。バッグの中身を確認するべきだった。
用事をすませて子供を父に預け、病院へ。

重かった母のバッグは必要なものがほとんど入っていなかった。
どうりで早く準備ができたわけだ。
よほど具合が悪くて気が動転していた?

違うよね。

今までのように、楽観的なことはもう言えないね。
私は覚悟しなければいけないと思った。

散らかる部屋。
いつも以上に危なくなった運転。
そして今日の、的を得ないバッグの中身…。


まだら認知症という病気がある。
認知症の初期に見られる症状の一種で、
まだらという言葉通り、一般的な認知症のように
全ての機能が低下するのではなく、
一部の機能のみが低下してあとは健常者と変わりないというもの。
母は翌日MRIに入った。

検査が終わり、母のもとへ行った。
「心臓で入院したのに、脳の検査なんておかしいね」と母。
「まあ、体はすべてつながっているんだから、
 どこの検査があってもおかしくないよ」と私。

この時母は、私ではなく、自分の正面を見据えてこう言った。

「あんたに時計をやる。
 家の鏡台の引き出しに入っているから、もろうてくれる?」

それは数か月前、商店街で買ったばかりの、小さな金の腕時計だった。
時計といえばほぼ一生ものなのに、買ってすぐにくれるなんて。
母はこの時、何かを察していたのかもしれない。

「ありがたく、いただきます」

私はこの時から、毎日母の腕時計を着けるようになった。

-母のこと

Copyright© 素敵にいってみよう , 2025 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.