母が入院した翌朝に電話をかけてきた。
「パジャマと下着を持ってきてちょうだい。
とても困っています」
「あれ?お母さん、昨日のバッグに入ってなかった?」
と聞いても、なんだか、要領を得ない答えが返ってくる。
そうか。バッグの中身を確認するべきだった。
用事をすませて子供を父に預け、病院へ。
重かった母のバッグは必要なものがほとんど入っていなかった。
どうりで早く準備ができたわけだ。
よほど具合が悪くて気が動転していた?
違うよね。
今までのように、楽観的なことはもう言えないね。
私は覚悟しなければいけないと思った。
散らかる部屋。
いつも以上に危なくなった運転。
そして今日の、的を得ないバッグの中身…。
まだら認知症という病気がある。
認知症の初期に見られる症状の一種で、
まだらという言葉通り、一般的な認知症のように
全ての機能が低下するのではなく、
一部の機能のみが低下してあとは健常者と変わりないというもの。
母は翌日MRIに入った。
検査が終わり、母のもとへ行った。
「心臓で入院したのに、脳の検査なんておかしいね」と母。
「まあ、体はすべてつながっているんだから、
どこの検査があってもおかしくないよ」と私。
この時母は、私ではなく、自分の正面を見据えてこう言った。
「あんたに時計をやる。
家の鏡台の引き出しに入っているから、もろうてくれる?」
それは数か月前、商店街で買ったばかりの、小さな金の腕時計だった。
時計といえばほぼ一生ものなのに、買ってすぐにくれるなんて。
母はこの時、何かを察していたのかもしれない。
「ありがたく、いただきます」
私はこの時から、毎日母の腕時計を着けるようになった。